1. HOME
  2. まわり道 by齋英俊

まわり道 by齋英俊

日時:平成31年2月2日
執筆者:齋英俊
タイトル: “で生きていく”という道を決断するためのまわり道

本日は、私の大学生時代のお話をしたいと思います。
岡本君の名ヒストリー「和太鼓を選ばなかった理由」(https://wadaiko-sai.com/archives/history/181019)や、葛西代表の「就職活動その1」(https://wadaiko-sai.com/archives/history/190111)にありますよう、メンバーの多くは、和太鼓でプロの道を選ぶ前、大きな悩み・葛藤があり、一度サラリーマンという道を選択しております。

私は、学生から社会人を経験することなく、就職活動もすることなく、そのまま和太鼓グループでプロとして生きていく道を選択しました。

そんな学生時代の話を、何回かに渡り、振り返っていきたいと思います。


時は2009年、大学2年生の頃。
多くの大学生と同じように、将来のことを考えておりました。

メンバーなら誰しもが思うこと。
もちろん、私も考えます。

和太鼓で食べていきたいー。和太鼓で食べていきたいー。

しかしながら、この時和太鼓グループはただの大学の一(いち)サークル。

大学学園祭以外の場で演奏することも少なく・・・
プロの世界なんて、夢のまた夢のまた夢・・・・。

若かりし齋青年。
和太鼓以外だったら、俺、なんの仕事につきたいんだろう・・・
何を仕事にしたら楽しい人生になるのだろう。
もしかしたら、まだ見ぬ世界に、やりたいことあるんじゃないかな。

そう、考え始めます。

ここで出てくるのが、私の人生のモットー。

人生楽しんだもん勝ち!!

周りの方の多大なる支えもあり、何とも恵まれていることに、それまでの人生、幼少期、学生生活と、常に楽しく生きてきました。

来る社会人生活。
仕事を選ぶ上で譲ることのできなかった絶対条件は、“楽しいこと” 。

これから人生の大半を占めるであろう仕事が、楽しくない、楽しめない、というのは、我が生き方に反する!!
というかたぶんそんな生活、おれ耐えられない!!!笑

ということで、自分が楽しい!と納得できる仕事を探す旅を始めます。

まず思い立ったのが、“アナウンサー” でした。
わたくし幼少期から、人前に立つこと、目立つことが好きな少年でした。

齋幼少期 (謎の世界観)

そして、親戚一同から、「英俊は口から先に生まれた」と言われるほど話すことも大好きだったので、まず、アナウンサーを最初に考えました。

アナウンサーはとても狭き門。
アナウンサーになるためには、調べたところによると、アナウンススクールに通ってみることが一番の近道と。

思い立ったら、というか好奇心が向いたらとりあえず行動してしまうのがわたくし。
何よりとても楽しそう!
ってことで、大学2年生の時、アルバイトしてお金をため、アナウンサーの専門学校とダブルスクールを始めます。
その学校で、発音の基本や話し方など、さまざまなレッスンをしてもらいます。

10年ぶりに取り出した当時のテキスト

現役の先輩方からもたくさんお話を聞き、イメージが膨らんでいきます。
そして1年後、初等科を無事に卒業します。

そこで思います。
アナウンサーって、もしなれたとしたらとっても楽しそうだな~!
でも個人的にはやっぱり・・・、
和太鼓で生きていくことにはかなわない・・・!!

和太鼓・・・、やはりおまえがナンバーワンだ・・・。(中二病)

「言葉で伝えること。」
それは和太鼓の中でもできるはず!
(葛西代表に志願してMCを担当し始めたのは、この頃からです。)

そう考え、他の道の模索を始めます。

時は2010年になり、続いて齋青年が考えたこと。
ベンチャー企業でバリバリ働いてみたいな~、
働いている人ってかっこいいな~。

性格的にも、大企業思考というよりは、ベンチャー企業派。
もし一般就職するなら、ベンチャー企業から探してみたいなと考えていました。
そんな時、幸運にも大学の先輩からの声掛けで、SNS系のITベンチャーで働かせてもらえることになりました。

授業そっちのけで!?ほぼ毎日のように働かせてもらいました。
立ち上げ1年弱で全国CMも流すようになり、そのスピード感に圧倒されます。
社員の皆様にも、一学生である若造に、とてもとてもよくしていただき、いろんな社会のこと、いろんな世界のことを教えてもらいました。

オフィスの様子

当時、家庭教師しかアルバイト経験のなかった齋青年にとっては、とても刺激的で充実した日々でした。

が、生意気にもやはり思います。
でも・・・、個人的にはやっぱり・・・、
和太鼓で生きていくことにはかなわない・・・!!

和太鼓・・・、やはりおまえがナンバーワンだ・・・。(中二病)

こうしてひとつひとつ、和太鼓以外の他の可能性を当たっては、つぶしていく。
そんなまわり道をします。

そうして2011年春、心の底から確信します。

やはり俺の人生、一番楽しいのは、間違いなく、
和太鼓でプロになることである。

それ以外の道を選ぶことは、自分の気持ちにうそをつくことである。

そこから、できるかできないかは置いておいて、
本気で、 “和太鼓でプロになること” を、人生の最大目標と掲げ、実際に歩んで行く、まずは一歩踏み出すぞと、覚悟が決まったのでありました。


和太鼓で生きていくことが一番楽しいー

正直、そんなことは、心のどこかで最初からわかっていたことかもしれません。
その道を選ぶ覚悟が決まっていなかったから、他の道を確認しにいったのかもしれません。

まわり道ではありましたが・・・
ひとつひとつ可能性のある道を探ってみて、消していく。
自分の気持ちに正直な道を残すため、ひとつひとつ確認していく。

一歩一歩、
やはり俺は、和太鼓、和太鼓が一番好きなんだ。
そう確認しながら、歩みを進め、他の道を消していきました。

そうして、「和太鼓で生きてく道を本気で目指してみる」覚悟が決まります。

今思い返すと、選んだ道を歩み出した後、悩んで足踏みし、無駄な時間を過ごさないために必要なまわり道だった気もします。
持論になりますが、悩んで悩みぬいて出した結論の方が、ぶれない。
プロの世界に飛び出して6年。
本当にいろいろなことがありましたが、ただの一度も、この道を外れようと考えたことはありません。

そして、このまわり道自体も、僕にとって非常に良い経験となりました。
アナウンススクールで学んだことは、和太鼓のMCに生きています。
和太鼓をプロ化すること自体、ひとつのベンチャーというかアドベンチャー!?企業のようなもので、至る所に当時学んだことが生きています。

人生に無駄なことなんてひとつもありませんね!笑


以上、長くなってしまいましたが・・・、
私の、和太鼓で生きていくことを目指す覚悟が決まった時の話でした。

上記を経て2011年、個人的にひとつの目指すべき道が定まり、実際に、“和太鼓で生きていくための道”を歩み始めます。

ただの大学の一サークルだった和太鼓グループ
まずしたことは、“学園祭の外の世界に出ていくこと”でした。
何の人脈もなかった僕は、ひたすらにネットで和太鼓が出演できそうな、関係できそうな機会を検索し、飛び込んでいくというシンプルな行動に出ます。

2011年7月3日 「亀有パフォーマンスパーク」初出演
後に、和太鼓は亀有で初事務所&共同生活をすることになりますが(https://wadaiko-sai.com/archives/history/181026)、その1歩目となる出来事です。

2011年7月30日31日、初の関東外公演、「松本城太鼓祭」
ホーム「夏まつり」でも触れた思い出の公演です。今も和太鼓の衣装を担当しているデザイナー正法地さんとの出会いもこの演奏でした。

えんチャレへの初登録もこの年でした。このえんチャレが、その後和太鼓を初の全国ツアーへと導くとは、当時思いもよりません。

和太鼓の今を形作るいろんなシーンが、この2011年に起こっていきます。

このひとつひとつが、和太鼓にとって、大きな欠かすことのできない大切な歴史なので、、、
またおって、このヒストリーページで振り返りたいと思います。

それでは、次回のヒストリーもお楽しみに^^

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事