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世界から和太鼓が消えたなら 〜「法律」篇〜 by渡辺隆寛

日時:令和2年5月22日
執筆者:渡辺隆寛
タイトル:世界から和太鼓が消えたなら 〜「法律」篇〜

1994年6月14日、東京都は大田区に“僕”は生まれた。
父親の名前から一字取り「隆寛」と名付けられ、大事に育てられた。

しかし、一年もしないうちに両親は離婚。僕は母親の元に引き取られた。

それからというものの、僕は父親の顔を知らない。


◆幼少期・小学時代

特に、母子家庭ということで嫌な思いをしたことはなかった。
居た存在がいなくなったわけではなく、物心がついた頃から父親というものが存在しなかった体。
だから、不足や不満を感じる術すらなかった。

小さい頃はよく、「なんでうちはお父さんがいないのー?」とか「僕も弟や妹が欲しい!」などと無邪気に問いただした記憶がある。その度にきっと母親を困らせていたのだろう。

小学校に上がると、いろんな友達に「ねえ、●●くんのとこのお父さんってどんなひと?よく怒る?恐い?」などと色々聞き回った。
純粋な好奇心である。
父親という形のない存在を、ただ知識で埋めたいだけだった。

母子家庭で育っていくのはやはり大変だった。正確にいうと、大変だったのであろう。そんな曖昧な記憶だ。
母親はいつも仕事で帰りが遅く、保育園や塾のお迎えは決まってお祖父ちゃんだった。
(母親の尊厳のためにも言っておくが、送り届けは欠かさずしてくれた。感謝。)

そんな家庭環境もあり、躾の半分は祖父母にしてもらった。
米粒を残さなかったり、神様仏様を大事にするのはその影響である。
とはいえ、可愛い孫だったので(?)、甘やかされていたという自覚もある。笑

◆「法律」との出会い

幼少期、どういうわけか「法律」にすごく興味があった。
今でも続いている「行列のできる法律相談所」を始め、オダギリジョーさん主演のドラマ「ビギナー」、天海祐希さん主演のドラマ「離婚弁護士」などを食い入るように見ていた。
かっこよく正義を振りかざす姿に、僕は心を射抜かれた。

「法律を使った職業ってあるんだ!」「弁護士って言うんだ、かっこいいなあ!」
最初は単純な憧れだった。身近なことすべてが法律で決められていることに、非常に興味深かった。

そんな折、初めて弁護士の方とお会いする機会があった。
その方は、僕が思い描くテレビの中の「弁護士」とはほど遠く(失礼。笑)、丸顔で、メガネをかけていて、とても優しそうな方で、襟元にはひまわりのバッジが輝いていた。

何故、弁護士と会うことになったか、察しのいい方は気づくと思うが、父親の養育費の未払いだった。
どうやら時効ギリギリ、というところまで来ていたらしい。

この時初めて、離婚した原因、経緯など聞いた。
「隆寛にはまだわからないかもだけれど・・・」と、色々聞かされた記憶がある。

その時は純粋に「そうか、法律を知っていれば自分の権利が保障されるんだ!」と何かかっこいい必殺技でも覚えたような気分だった。

その頃から、僕の夢は「弁護士」になること、そして法律を使って「離婚をなくしたい」ということだった。

法律を学んだらヒーローになれるもんだと思っていた。
小さい頃は家で母が泣く姿を何度も見た。いや、その半分は僕にも原因があったのかもしれないが、少なくとも一人で泣く必要はなかったかもしれない。

−「離婚」は悪だ。そして自分は、そのカルマを背負っているのだ。

この頃からそんな思いが僕を蝕んでいた。
今思えば、“呪い”が始まっていたのだと思う。
あとは苦悩の連続だ。

◆中学・高校時代

中学・高校に上がって、ちゃんとした勉強をするようになってからすぐに分かった。
僕は圧倒的に、文系ではなく、理系脳だった。

ここで人生最初の関門が現れる。

「“やりたいこと”と、“得意なこと”はどちらを選ぶべきか。」

初めての選択だった。
何度も、何度も、悩み倒し、幾度となく先生方と相談した。

いろんな人の知識を借りながら、やはり僕は文系に進むことにした。
昔から自分のやりたいことは叶えなきゃ気が済まないタチで、挑戦せずに逃げてしまうのが嫌だったのもある。

ただ、決定的なきっかけは、松下幸之助さんのこんな名言である。

「人生の岐路に立ったとき、どっちの道を進むか迷ったときは、困難な方を選ぶとよい」

自分にとって文系の道を進むのが困難だとは分かってはいたが、この言葉を受け、辛い道こそ男が上がると信じ、一歩踏み出した。

そしてご存知のように、僕は和太鼓部に入部。
小さい頃、エレクトーンを習っていたり、よく歌を口ずさんだり、音楽には造詣が深かった。
過去のヒストリーにも書いたが、その出会いは偶然。
しかし、太鼓はもとい、音楽が好きだったのでとても熱中した。
あの頃は勉強に部活に、青春を駆け抜けていたと思う…(遠い目)

(詳しくは、#1「君は太鼓に光り輝く」http://wadaiko-sai.com/archives/history/190822をご覧ください^^)

小さい頃からエンタメが好きだったから、何故か他のみんなよりリズム感が良かったり、パフォーマンスが得意だったりした。
ひとしきり部活に打ち込み、冬の大会では個人賞を受賞。

晴れて、有終の美を飾った後は、受験勉強が待ち構えていた。

勉強は別に好きではなかったが、自分の選択に責任を持ちたくて必死に頑張った。

◆大学時代

結果、無事に大学受験を終え、法学部に進むことができた。

「理系に進んでいたらもっといい大学に行けていたのかな」、なんて思う日もあるが、そんなことはどうでもいい。
ここまで来た以上はとにかく突き進むしかない。
半ば洗脳状態でここまで進み、この道が最善かつ最良だと信じ込ませていたのだ。

だが、人生はそんなに甘くない。
次なる関門が現れた。

「金銭面」である。

僕が大学に進学するまでに、法制度も大きな変更を遂げていた。
弁護士資格を得るためには、法科大学院に進学卒業することが必須条件となっていたのだ。

もう使える奨学金は使い果たし、未払いの養育費も進学に充てていたので手詰まり。

どうしようかと思った矢先、もう一つのルート「予備試験」というものが選択肢に上がった。
これは「司法試験」よりも難しいと言われている試験で、この「予備試験」さえ突破できれば、法科大学院の卒業なしに「司法試験」の受験資格が与えられるという、いわばスキップルートだった。

−これしかない。

そう思い、大学在学中から予備試験の勉強に勤しんだ。

やり始めて改めて分かったが、これがまあむずい!!笑

結論から言うと、一次試験が通る程度にはなんとかなったが、その先の論述試験が非常にしんどかった。
一問の回答に3,000~5,000字程度費やしていたので、僕がこの数年で書きなぐった文字の量は計り知れない。
我ながら、予備校も行かずによく独学でここまでやれていたとは思う。

この勉強のおかげで、大学内で1、2を争う難易度のゼミへの選考が通り、「衝動Ⅱ」のツアーを制覇しながらも、学内の成績優秀者に選ばれた。

何度も折れかけたが、夢のため、野望のために負けられない。
気づけば、「いつか法律資格を持って父親を見返さなきゃならないんだ!」と思うようになっていた。

いつしか、目的がゴールになってしまっていたのだ。

時が経ったからか、辛い勉強の腹いせか、今までの苦悩を誰かのせいにしなければ気が済まなくなっていた。
どんどんどんどん、僕の心はすり減っていった。

◆法律事務所へ就職

結局、在学中には予備試験は突破できずに(と言うか在学中に突破できるのなんて一握りなので半ば諦めていたのだが)、学生時代からのバイトの流れで、とある法律事務所に就職した。
その法律事務所は弁護士の数も多く、組織や法律事務を学ぶには申し分ない場所で、担当していた先生からも非常に良くしていただいた。

「勉強のために」と、将来性を見込んで多くの案件を任せていただいた。
いわゆるパラリーガルだった僕は、時には裁判所へ書類を提出しに行ったり、時には福島まで保釈金の納入のために現金数百万を抱えて新幹線に飛び乗ったりもした。笑
(あの時は生きた心地がしなかったな・・・)

ニュースに載るような刑事訴訟もやったり、億単位の破産もやったり、いわゆる過払い訴訟もやったりと1年目でここまで触れさせてもらえたのは、本当にご縁と運が良かったとつくづく感じた。
(今でもこの先生とはお付き合いがあり、よく公演にも足を運んでくださります。ありがたい限りですね。)

そしてもちろん、当たり前のように離婚事件にも触れた。
そんな折、ふとあることに気が付いた。

「10年経っても離婚ってなくなるばかりか、どんどん増えてるよな…。」

時代変化か。
幼少期は、「離婚をなくしたい」とすら思っていたのに、むしろその数が増えているとは非常に皮肉な話だった。
「離婚をなくすこと」が果たして善なのか、「離婚」は悪なのか。
「正義」というものを勉強していく上で、何をもとに僕はこの先、本当に法律をやればいいのか、わからなくなり始めていた。

そしてついに、社会人2年目となった2018年に、僕はパンクした。

なんのために勉強をし続けてきたのかわからなくなってしまったのだ。

毎日、「何故働くのか」「何故生きるのか」と考え惚けていた。
あの頃は辛くて毎日泣いていた気がする。
生きているだけで、人間関係も、お金も、勉強も辛いことばかりなのに、一体何のために生きているのだろう、と。

「俺って、父親に喧嘩売るためにここまで来たんだっけ…」

純粋な気持ちで目指した法律の道も、いつしか父へのネガティブな感情に変わっていき、その感情は当たり前のように、そう長くは続かなかった。

「このままではいけない」と思い、一度立ち止まる決心をした。

昔のこと、家族のこと、好きなこと、嫌いなこと・・・
この道をちゃんと歩んでいけるか、はたまた、何か別の選択肢が考えられるのか。

◆◆◆◆◆

悩んでいたある日、母親の口から初めて父の詳しい話を聞いた。

「隆寛、お父さんの吹奏楽見に行ったの覚えてる?」

…え?
全く覚えていなかった…いや、そんなことより、父親が音楽をやっていたことがあまりに衝撃だった。

僕は「和太鼓」と出会ったのが、偶然だと思っていた。
自らの意思で、自らの運命で、好きな音楽を選択し、太鼓に熱中していると思っていた。
だが、実際は違った。必然だったのだ。
少なからず音楽が近くに寄り添っていた。

あれだけ忌み嫌った僕の血には、紛れもなく音楽のDNAが刻まれていたのだ。

そして不思議と、肩の力が抜けた気がした。

そして、一つの結論にたどり着いた…

「こんなネガティブな感情で人生歩んでも仕方ない。
もっと大事なことがあるはずだ。

「離婚」をなくそうとすることは素晴らしい、でも人生そんな単純じゃない。人はそれぞれ、いろんな事情を抱えて生きている。
まして、生活こそ苦しかったが僕らだって楽しく暮らしてきたじゃないか!

だったら僕は「離婚」という社会風潮を受け止め、残された子どもたちの夢を応援していきたい。

僕は幼い頃エンターテイメントに救われた。
辛い時、苦しい時、舞台上で輝く人たちを見て心が震えた。
だから今度は僕が、ひとり親家庭で悩んでいる子供達に、“夢”や“希望”を与える番なんじゃないのか!?

そしてその術は持ってる。この血が証明している。
僕はこの「和太鼓」という楽器で多くの人に感動を与える。
和太鼓で世界を幸せにするんだ!!」

雲間から、一筋の光が差し込んだ。

正直、腐れ縁とはいえここまで勉強してきた「法律」を引き返すのは惜しい気がした。
だが別に手放すわけではない。
勉強した知識や、社会でしてきた経験は紛れもなく僕が得たものだ。

逃げじゃない、全力で打ち込んだからこそ新たに見えた“選択”。

新しい“夢”もできた。
「ひとり親家庭の子を始め、世界中の人々を幸せにする。」
それが、僕がこの世に「生」を受けた意味だ。

―僕は太鼓で、光り輝く存在になる。

岡本、渡辺、酒井はそれぞれの想いを引っさげ、「SAI LAND 前途洋洋篇」に挑むのであった。


あれから間も無く1年を迎える。
とても濃く、とても長い1年だった。

だが、僕らの航海はまだ終わらない。
この先も団体や、個人が願う“夢”や“希望”を胸に、和太鼓彩はこの大海原を旅し続けるのだ。

まだ、この冒険は始まったばかり・・・

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