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世界から和太鼓が消えたなら 〜「エンターテインメント」篇〜 by渡辺隆寛

日時:令和2年4月22日
執筆者:渡辺隆寛
タイトル:世界から和太鼓が消えたなら 〜「エンターテインメント」篇〜

1994年6月14日、東京都は大田区に“僕”は生まれた。
父親の名前から一字取り「隆寛」と名付けられ、大事に育てられた。

しかし、一年もしないうちに両親は離婚。僕は母親の元に引き取られた。

それからというものの僕は、父親の顔を知らない。


◆幼少期・小学時代

一人っ子ということもあり、家では一人で過ごすことが多かった。
もちろん最初は家で過ごすのが酷くつまらなく、友達の予定を聞いては毎日遊んでいたが、次第に一人で解決するのが上手くなっていった。

コロコロコミックを何周も読み、暇があればゲームをしていた。
夏休みなんかは近くのTSUTAYAでDVDを借りて、家ではお昼ご飯を自分で作ったりなんかもしていた。

そんな僕を家で相手をしてくれるのは、決まって「テレビ」だった。
バラエティなんか見るとよく会話をするように突っ込んでいた。
ドラマなんかを見てはよく感情移入をしていた。

その頃から僕は何かこう“キラキラ”したものに目が惹かれていた気がする。

―いつの時代も変わらない正義のヒーロー、「仮面ライダー(特撮)」
―夢と魔法の世界、「ディズニー
―そして、歌って踊る憧れの存在、「アイドル

齧り付くようにテレビに向かっていた。
際立って、「音楽」の世界には釘付けだった。

1990年代からゼロ年代にかけて、所謂男性アイドルといえばSMAP、女性アイドルといえばモーニング娘。だった。
どちらももちろん好きだったが、何故か母親とASAYANを見るのが日課だった。

「あか組4、黄色5、青色7、どれが人気かな!」「中澤さん厳しい・・・」など

その頃から僕は、いわゆる「オタク」だったかもしれない。
一人で熱中することがとにかく好きだった。

◆中学時代

中学に入ってもなお、アニメや漫画が当たり前のように好きで、色んなアイドルを応援していた。
この頃になるとAKB48が週間ランキングの常連になり始めており、「推しメン」が誰か、という話が友達との間でできるようになった。

とはいえ、この頃の「オタク」というのは、やれ電車男だ、やれ秋葉原だなどと揶揄の対象となっており、僕も例に漏れない。
母親からは、お小遣いを貯めて初めて買った中川翔子のDVDを見られ、冷ややかな目で見られた記憶がある。

ただ、そんな日常のあれこれを忘れさせてくれるのも間違いなく、それら「エンターテインメント」だった。
辛い時、悲しい時、何かを忘れたい時、もちろん夢中になりたい時、「エンターテイメント」は僕の心を掴んで話さなかった。

今思えば、僕の生活には「エンターテインメント」は至極欠かせないものとなっていた。
ライブやテーマパークに足を運べば、「本物がいる」という感動や、帰り際の満足感、物販に並んだ辛さ、そんなこともさえも思い出となっていた。

◆高校時代

高校に入学してからは、何か音楽にゆかりのある部活をしたいと思っていた。
そう長くは続かなかったが、幼少期にエレクトーンを習っていた時期があり、その時の記憶は楽しいものばかりだった。
僕のDNAには音楽の血が刻まれているのだなと、心の底で感じていた。

そしてみんなもご存知のように、僕は和太鼓部に入部。
生活の一部には常に和太鼓があった。
大会よりも何よりも、お客様の前で演奏するのが本当に楽しかった。

(詳しくは、#1「君は太鼓に光り輝く」https://wadaiko-sai.com/archives/history/190822をご覧ください^^)

◆大学時代

大学に入ってからは、エンターテインメント、ひいては音楽ライブを作り上げたい!という気持ちのもと、文化祭実行委員になり、引退までの3年間、有名バンドを呼んで音楽ライブを作り上げることに専念した。

大学二年生時には、企画、予算、集客、現場指揮、チケットの販売から収支まで務めるリーダーにも任命された。
おかげで、大学としては初の「フェス」形式を成功させるなど、それなりの功績は残した。

帰り際、お客様が笑顔で歩いている姿を見て、心の底から嬉しかった。
この経験は「和太鼓彩」との間でもいい関係を織り成し、ありがたいことに全国ツアーを回るようになった後も、その意義を強く感じていた。

◆大学卒業・就職

僕が卒業することには「和太鼓彩」の規模も大きくなっていた。
無論、この世界に行きたかったという感情がゼロではない。
ただその道を考える余地もなく、僕はその想いに蓋をした。

「法律」の道に進みたかったのだ。
幼い頃から法律が好きで、将来は法律の仕事に就くものだとばかり思い込んでいた。
資格勉強も重ねなければならなかったので、一度ここで和太鼓彩から離れようとすら思っていたのだが、葛西さんからこんなことを言われた。

『太鼓をゼロにするな。』

どんな形でも、少ない頻度でもいいから和太鼓彩に関わった方がいい。
その真意は色々あった。

僕が卒業する頃には、和太鼓彩は2回目の全国ツアーが決まっていた。「新世界」である。
葛西さんからこのツアーへの思いを聞き、このツアーには僕にいて欲しいということ、僕も就職してもこの世界は切り離したくないということ、色んな事情を考慮して僕はこのツアーの参加に臨んだ。

働きながらの演奏は辛かった。
練習も満足に参加できずに体力面は落ちるばかり。
今ある時間を全て太鼓に費やせたら、もっと良い演奏ができたのかな、なんて考えることも多かった。

それは全く同じことが仕事にも影響した。
次第に資格勉強にも追い込まれ、僕の心は酷く滅入っていたのだ。
こんな鬱々とした日々が、あとどれだけ続くのだろうか。

思うようにいかない毎日に追い込まれ、社会人2年目となる2018年に、僕はパンクした。

法律の勉強に心が追いつかなくなってしまったのだ。
いつしか何で今法律を勉強しているのかさえわからなくなってしまった。

「これじゃあどっちも中途半端で、どっちにも失礼じゃないか…」
そこで、一度考え直す決心をした。
今まで蓋をしてきた気持ちにちゃんと向き合ってみよう。

◆◆◆◆◆

腹の叫びは聞こえていた。

「太鼓が叩きたい」という気持ちを抑えられなくなっていたのだ。
資格勉強をしながらも「受かったらこんな曲作りたいな」「んーここの左手うまく動かないなー」など、気づいたら手が動いていた。

でもそんな衝動で飛び込めるほど甘い世界ではない。

将来のこと、やりたいこと、夢、希望、野望・・・
この道をちゃんと歩んでいけるか、はたまた、何か別の選択肢が考えられるのか。
この偉大な足踏みには、紛れもなく代表の葛西さんや岡本さんの大きなサポートがあった。

一つ上の先輩で、同じく会社を辞めてこの道を選んだ岡本さんとは、何度もディスカッションを重ねた。
「隆寛が前向きに太鼓をやりたい気持ちを見つけて、衝動で終わらせなければ、隆寛なら大丈夫。」など、励ましてもらいながら、より良い道の選択に付き合ってくれた。

葛西さんからは時折厳しいことも言ってもらった。
「和太鼓彩として、なべっちが本当に太鼓で食っていきたいという覚悟があるなら俺らは迎え入れる。」

正直、逃げの選択になるのが怖かった。
頑張ってきた勉強を無下にしてしまうことも嫌だった。
そして何より、自分が決めきれなかったのは、責任と覚悟が決めきれなかったのだ。

今まで器用貧乏をいいことに好き勝手色々やってきた。
もしかしたらそれは自己保身だったのかもしれない。ただそれじゃあ立ち行かなくなってきてしまった。

正直悩みすぎて知恵熱が出るほどだったが、落ち着きたい時には決まって太鼓の動画を見ていた。

・・・!!

そんな時、一つの結論にたどり着いた。

「あれ、そうか…もう答えは出てたんだ。
僕はいつだってエンターテイメントに生かされてきたじゃないか。
僕はいつだってこの世界が好きで、楽しい時も辛い時も僕の心を救ってくれた。

そして僕は今、誰かを心を救い、感動させる力を持っている。
「和太鼓」だ。

高校時代、老人ホームであの涙を見た時から僕はわかっていた。
「和太鼓」には不思議な魅力があって、誰かを幸せにすることができる。

思いに蓋をしてしまっていて気づかなかったが、今までだっていつだってそうだ!
僕は、お客様に笑顔になっていただくことが好きで仕方がない!!

和太鼓でこの世界を幸せにしたい。
元気になりたい時はもちろん、辛い時、悲しい時、いつだって寄り添える存在になりたい。

和太鼓で世界を幸せにするんだ!!」

何か内側から湧き出てくる気がした。
答えはいつだって自分の中にあった。覚悟が決めきれなかっただけなんだ。

でも今は違う。
心の底から誰かに笑顔を届けたいと思っている。

―僕は太鼓で、光り輝く存在になる。

その想いのもと、大きな一歩を踏み出した。


あれから間も無く1年を迎える。
とても濃く、とても長い1年だった。

だが、僕らの旅路はまだ終わらない。
この先も団体や、個人が思う“楽しいが響きわたる”を胸に、和太鼓彩は世界を旅し続けるのだ。

まだ、この冒険は始まったばかり・・・

次回、アナザーサイドストーリー「法律」篇に続きます。

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