和太鼓×神話「イカロス」〜生き方で見る、死に様〜 by渡辺隆寛
日時:令和3年10月13日
執筆者:渡辺隆寛
タイトル:和太鼓×神話「イカロス」〜生き方で見る、死に様〜
「太鼓の打ちはその人の人生を映し出す」
なんて話はこの世界にいると良く聞くようになった。
あらゆる楽器においても、身体全身を使い目一杯打ち込む「和太鼓」は、
特に稀な形をしているように思う。
それ故に「自分」と「和太鼓」が1対1で向き合う、いわば「鏡」のような側面もある。
そこで僕は、とある一人の人物について作曲を試みた。
それが「イカロス」である。
◆「イカロス」の神話
皆さんはギリシャ神話における「イカロス」の話をご存知だろうか。
発明家である父ダイダロスのもとで生まれたイカロスだったが、
とあることをきっかけに、親子ともども塔に閉じ込められてしまう。
そんな折、ダイダロスは鳥の羽を集め、蝋で固めることで、
大きな翼を作り出し、脱出を試みるのだった。
父ダイダロスは、イカロスにこう言った。
「イカロスよ、空の中くらいの高さを飛ぶのだよ。あまり低く飛ぶと霧が翼の邪魔をするし、あまり高く飛ぶと、太陽の熱で溶けてしまうから。」
そう言い、塔を抜け出した二人。
翼を手にし、自由に飛び回った。
イカロスは閉じ込められていたその思いを解き放つように、自由に飛び回った。
高く、高く…
あまり高く飛びすぎるあまり、イカロスは父の忠告を忘れ、調子に乗ってしまった。
もっと高く…
もっと………もっと……!!!
我を忘れたイカロスは、ついに蝋でできた翼が溶け、
急転直下、
青海原に、
落ちた。
◆「傲慢」←→「???」
神話というものは時に教訓を得る。
この話からも我々は何かを考えねばならない。
上に話した話はあくまで事実をなぞらえたもの。
この話から何を受け取るかは、アート同様、「自由」だ。
一般的にはこの話から、
「傲慢さやテクノロジーの発達は身を滅ぼす」
という教訓が唱えられている。
もちろん、そんな一面もあるだろう。
しかし、果たしてそれだけか?
僕のヒストリーを読んでいただいている方ならもうお分かりだろう。
「傲慢さ」その裏に何があるのか?
イカロスは、無謀を顧みずに誰も到達したことのない高みを目指した。
それ故に地に落ちた。
それを本末転倒というものもいるだろう。
生きるための脱出だったはずなのに、結局死んでしまっては無意味ではないかと。
真相はその力を手にしたものにしかわからないかもしれない。
ただ、その勇気ある行動によって後に続くものがまた違った道を拓くこともある。
蝋に代わる翼を作るのか、はたまた、誰も閉じ込められない世界に作り替えるのか。
その辺りは、自分に通じることを感じ取ればいい。
あとは何に“価値”を見出すかでしかない。
◆「死」は「悪」か
「死ぬこと」は「悪」か。
それは絶対的か、相対的か。
老衰は「善」か、自殺は「悪」か。
仮に病に苦しみ、闘病も辛いと思っている人やいじめの被害者が、
逃げ出したいがためにどうしようもなくする自殺は「悪」か。
「安楽死」は認められないのか。
そもそも、なんのための「人生」か。
幸せになるためか。
それとも生きていることそれ自体が「善」なのか。
人生は中身がなくても「善」か。
この答えのない問いを考え続けるのが、いわば哲学である。
僕は哲学が好きだ。
昨年読んだ本でとても考えさせられた著書がある。
『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版』
この本にはあらゆる視点から「死」というものが取り上げられていた。
そしてそれは同時に、「生」へ向き合うことでもあった。
「死」と「生」は表裏一体。
こんな時代だからこそ、どう生きるべきか。自分がどうありたいか。
改めて向き合う必要があるのだ。
「生き方で見る、死に様」
まさに表題の通りである。
ここでイカロスの「死」について是非を問うのはやめておく。
議論にしかならないからだ。
ただ、僕は一つだけ、
願うなら、
大空を高く飛びたい。
次回、「和太鼓×死生観「散ればこそ」〜死に際に見る、生き様〜」
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