和太鼓彩新曲「散ればこそ」作曲秘話 by葛西啓之
日時:令和3年5月2日
執筆者:葛西啓之
タイトル:和太鼓彩新曲「散ればこそ」作曲秘話
みなさまこんにちは。
葛西です。
改めまして、4月10日、「この世を目覚めさせる音。」かめありリリオホール公演にお越しくださいました皆様、また、『「この世を目覚めさせる音。」を一緒に奏でようプロジェクト』にご賛同いただきました皆様、本当にありがとうございました。
おかげさまで当日は、皆様からいただいたたくさんの想い・音を胸に、素敵な時間を過ごさせていただきました。
さて、本公演にて初お披露目となりました、わたくし作曲の新曲「散ればこそ」。
本日は「散ればこそ」作曲に至った背景をお届けしたいと思います。
遡ること一年前。
「日本人の死生観」について学ぶ機会がありました。
日本人にとって、いや、人間にとって、本来死は身近なものであった。
生がある上で死があるのは必然。
むしろ、死があるからこそ生がある。
この世の全ては循環しているのだ、と。
今日を必死に生きるからこそ明日が開ける。
今世を必死に生きるからこそ来世が開ける。
それが日本の「武士道」である。
そういった日本人ならではの死生観を学ばせていただき、私の心に響くものがありました。
翻って、現代はどうか?
「死」とは畏怖すべきものであり、避けるべきものである。
「死なないため」に生きる。
「死なない」ことが人生の目的であり、そのために「生」が制限される。
私はこの話を聞いたとき、自らの日々の行動を恥ずかしく思いました。
サラリーマンを辞めたときに、「生への執着」はとうに捨てていたはず。
でも、知らず知らずのうちにその我欲が湧きはじめ、「いかに長生きするか」「いかに和太鼓彩を長続きさせるか」そういった小さい枠組みに囚われていたのです。
私がやりたいことは、そんなことではなかったはず。
目の前の一打に命を懸け、目の前の人に感動をお届けし、世界中の価値観を変えていく。
「必死に生きる人生は素晴らしいものなんだ」というメッセージを、世界中に発信してく。
それこそが2013年に私が決めた“”覚悟“であり、私が決めた”“人生”なのです。
この体験を経て、本当に、「一打一打に懸ける曲」「生を全うする曲」を作ろう、と決心がつき、曲作りを始めました。
まずは、土台となるリズムから。
和太鼓彩ではここ数年、様々な太鼓を使い、リズムの組み合わせの妙を意識した「アンサンブル」に重点を置いてきましたが、この曲はあえて逆に。
とことんシンプルに、全員で同じリズムを打ち込む。
そういった考えから、最初から最後まで、全員で16分音符をひたすらに打ち込み続ける、といったリズムを採用。
その中に、全員のソロを入れました。
本曲でのソロのテーマは、「人生最後の演奏で、何を残したいか?」。
自分という一人の人間がこの世に生を受けた意味は何か?
自分はこの世の中に何を残せるのか?
そういったことを、彩メンバー一人一人に突き詰めて向き合ってもらいました。
ソロの前に一人一人が叫ぶ口上は、「辞世の句」です。
和太鼓に命を捧げ、今世をやり遂げることを覚悟した演者達が、何を語り、何を表現するか。
一人の人間の「魂が燃える姿」を、ぜひたくさんの方に見届けていただきたいと思っております。
以上、新曲「散ればこそ」のコンセプトになります。
おかげさまで6月20日は「この世を目覚めさせる音。」の追加公演も決まっており、これからもこの曲を演奏させていただく機会が多くあるかと思います。
その全ての演奏で、私たちは命を燃やして、「生きることの素晴らしさ、生と死が循環することの美しさ」、そして、「一日一日を必死で生きることの大切さ」をお伝えしてまいります。
微力かもしれませんが、我々6人の生き様が、この、死を怖がりすぎるあまり身動きがとれなくなった世界を、行動が制限され生を全うできなくなってしまった人々を目覚めさせていくことを願ってやみません。
改めまして、4月10日の公演にお越しくださいました皆様、本当にありがとうございました。
最後にこの言葉を贈ります。
散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき
桜は散るからこそ美しいのである。
この憂き世に永遠なものなんてあるだろうか、いや、ない。
人生も然り。
「生」は「死」があるから美しいのです。
どれだけ望んでも、永遠の生というのはありえない。
我々にできることは、いま生きているこの瞬間が奇跡なのだと知り、いまある命を慈しみ、毎日を全力で、必死で生きることだけなのです。
どうかこの世界が、輝かしい命で満たされた世の中となりますように。
感謝を込めて。
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