和太鼓×死生観「散ればこそ」〜死に際に見る、生き様〜 by渡辺隆寛
日時:令和3年11月10日
執筆者:渡辺隆寛
タイトル:和太鼓×死生観「散ればこそ」〜死に際に見る、生き様〜
◆回想
僕が大学4年生の頃、学生時代の友人と就職の話になった。
聞けばそいつは保険会社への就職が決まったらしい。
「保険ってどうなんだろうねーーー」という彼に僕は、
「“死”というネガティブなものに、金銭で安心感を与えるなんてすごい発想だよね。」
と返した。
そいつは僕に「お前のそういうとこ好きだよ笑」と言ったが、僕にはよくわからなかった。
◆はじめに
2021年5月に行われた僕のソロライブで、ラストを飾った3曲がある。
「鳥籠」
「イカロス」
「散ればこそ」
この3曲、実はそれぞれが微妙にリンクしている。
ネガティブな感情を原動力に、自らの殻を破る「鳥籠」
「鳥籠」とは裏腹に、現状を打開したその羽に身を焼かれ墜落した「イカロス」
そして、その死というものを捉えた時に自分がどういう生き様を達成するか。
そんな死生観を表した「散ればこそ」
彩ヒストリーでも最近では「鳥籠」「イカロス」について扱ってきた。
今回はそんなソロライブの締めくくりでもある「散ればこそ」について話していこう。
◆「死ぬこと」
実際のところ、「死」とは「いつか訪れる確定事項」に他ならない。
仏教的に言えば、避けられぬ四苦の一つ。
(ちなみに四苦とは「生老病死」の四つ)
そして「死」は「生」の道すがら訪れる。
そう、道中なのだ。
「死」とは終わりではない。
「生」と「死」は切り離すことができない、これも仏教用語で「生死」と呼んでいる。
死ぬことを受け入れて初めて、生きる意味を見出す。
そんな生き死にの価値観を俗に「死生観」と呼ぶ。
では一体、人はなんのために生き、何を思って死んでいくのか。
その答えがわかったとき、人は、その晩に死んでもいいと思うだろう。
◆「イカロス」が築いた確固たる死生観
哲学をする上で一番大事なのは、あらゆる可能性の考慮である。
前回、「イカロス」の神話は、実は学ぶところがあるのではないか?というお話をした。
イカロスは、父の言いつけを守らず高く飛びすぎるあまり、真っ逆さまに落ちてしまった。
そのことに対して、
「あぁ、あそこの子はやっぱり」
「お父様の言いつけを守らなかったから」
などと決めつけるのは早計であるし、他人を憐れむことで自らの立場を優位に立とうとしているに過ぎない。
実際に語られてはいないが、
「もし、イカロスが人生哲学を達していたら?」
一般に、イカロスが飛び過ぎた原因は「調子に乗って」などとされている。
しかし、その真意は「空を飛べたものにしかわからない」。
もし仮にイカロスが、
“確固たる信念“を持って太陽に向かって飛んで行ったのだとしたら?
“この身を滅ぼすことを覚悟しながら”、遥か大空を羽ばたいていたのだとしたなら?
それはもはや、並の常人が理解できないような領域まで考えていることになるだろう。
その点で「イカロス」の神話は大変面白いのである。
◆「明日に光を、未来に希望を」
この曲は面白いことに、辞世の句を読むシーンがある。
当たり前のように辞世の句なんて読んだことがないため、とても考えた。
このコロナ禍で、僕ら和太鼓奏者が皆様にお届けできることがあるとしたら。
僕が「死んでも守りたいものがあるとしたら」
それは、“みなさまの笑顔”と、
あとに続く“子どもたちにどれだけの可能性を残せるか”、だった。
僕は自分のために人生は生きられない。
まだ生きることに納得していないからだ。
でも、あなたのためになら生きられる。
あなたの笑っている顔を見るためなら、舞台で輝き続ける!
子供たちが、もし将来やりたい!と思ったことにその可能性を提示できように、
僕が道になる!
そんな想いを込めた。
◆「ゆく川の流れは絶えずして」
“ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。”(方丈記)
世の中とは無常であり、常に生まれては死に、死んでは生まれていく。
どこからきて、どこに向かうでもない。
きっと人生の答えなんて見つからないのであろう。
何千年経っても哲学は進歩しない。
それでも、自分が納得する人生を進みたいがために
時に歩みを止めながらも一歩ずつ歩いていく。
“散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世に何か 久しかるべき”
あぁ、桜は散っていくから美しいのだ。
儚く散るか、勇ましく散るか、
もし散り際を選べるならそれは確かに最高の幸せであろう。
人生は終着点ではなく、道中に過ぎないのだ。
今日もまた、生き、そしてまた死に向かっていく。
今を真剣に楽しめているか?
自分の人生を生きているか?
今この場で散っても悔いはないか?
答えを出す必要はない。
それでも、ただこの一瞬だけは、
僕は太鼓で、光り輝くー
◆終わりに
僕の友人は、保険会社だろうが、飲食だろうが、広告だろうが、
きっとそんなに大差がなかったのかもしれない。
それもまた是である。
ただ一つ言えることがあるとしたら、
5年前と今ではまた違った心持ちでこの社会に挑んでいるであろう。
それ故に無常であり、無常故にそうなのだから。
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