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バルト三国での涙 by齋英俊

日時:令和3年1月5日
執筆者:齋英俊
タイトル:バルト三国での涙

今回のヒストリーでは、2018年に参加した「バルト三国独立100周年記念コンサートツアー」。
そして、そのバルト三国で経験した忘れられない出来事に関して、振り返りたいと思います。
(たま~にある齋真面目ver.です笑)

バルト三国は、バルト海の東岸、フィンランドの南に南北に並ぶ3つの国々!


(Club Tourism Internationalより引用)

バルト三国は、1918年にロシア帝国より独立。
その独立から100周年を記念しての日本からのお祝いのツアーに、僕齋英俊が参加させていただきました♪

ツアーのメンバーは、津軽三味線奏者の山中信人さん。(写真1枚目)
歌舞伎舞踊家の若月仙之助さん。(写真2枚目)
プロデューサーの高久照敏さん。(写真3枚目)
そして僕の4名でのツアーでした。

ツアーの様子は、広報部レポートにて彩之助くんがレポートしてくれているので、ぜひぜひそちらを見てね♪
(https://wadaiko-sai.com/archives/20294)

さて、今回はヒストリーページということで、僕の太鼓人生を大きく変えた出来事に関して、振り返りたいと思います。

その前に、さらに月日を遡ります。

このバルト三国ツアー前年の2017年。
津軽三味線奏者の山中信人さんと、2人ユニットでアゼルバイジャンツアーに参加させていただきました。
(ヒストリー:https://wadaiko-sai.com/archives/history/201215)

このアゼルバイジャンツアー。
実は、太鼓人生で味わった、初めての大きな挫折でした。

さらに時を遡り、2016年。
「これから彩がもっと大きくなっていくためには、外の世界のことを知る必要がある」。
この時初めて、彩の外の世界に連れ出してもらい、琉球伝統歌舞集団 琉神さんとのツアーに参加させていただきました。

今振り返ると、琉神さんは、和太鼓グループ彩と近かった。
表現する世界観や団体の方向性が、とても近かったんです。

2017年。
山中信人さんとのアゼルバイジャンツアーは、まったく異なりました。

山中さんは、中学校卒業後15歳で単身青森県弘前市に渡り、山田千里氏の内弟子として修業。
15歳の時に自らの人生を定め、伝統の世界一筋で生きてこられた方です。

僕らとは、180度異なるバックグラウンドを持つ方でした。

和太鼓グループ彩は、ほとんどのメンバーが桐蔭学園高校和太鼓部のOBから成り立っています。そして、大学や社会人経験など他の世界を経て、和太鼓のプロの世界を選びます。
僕自身、高校で和太鼓と出会い、大学・院と進学し、その後、プロの世界に飛び込みました。

伝統芸能の世界の方は、幼少期からその世界に触れ、その道一本で生きてこられる方がほとんどです。

正直、どこかで、伝統ど真ん中の方々に苦手意識があったのかもしれません。

2017年のアゼルバイジャンツアー。
今だからこうしてヒストリーに綴ることができますが、
正直に、完全に山中信人さんの演奏におんぶに抱っこ。
むしろ、いない方が良い、足すら引っ張っていました。

自分が住む国であるはずの日本の伝統曲。自分が普段演奏しているはずの楽器。
それにも関わらず、知らないことの数々。

そして、グループを抜け1人になった途端、いちソロ奏者として舞台に立つと、こうも何もできなくなるのか。

和太鼓グループ彩という団体の守り皮を剥ぐと、何もできない。

悔しいを通り越し、圧倒的な無力感でした。

そんな中でもひとつ、大きな失敗がありました。
山中さんのオリジナル曲「風林火山」の曲中での出来事です。

山中さんの生み出す“間”がわからず、僕が先に音を出してしまったのです。

日本の“間”というものすら知らない。
無知からでる不安で、その“間”に耐えられなくなってしまったのです。

そしてその出した音も中途半端だったこと。
全てが駄目でした。

山中さんの創り出す世界観を、ぶち壊した瞬間でした。

「それは、二流だよ。」

最後に、優しい口調ながら、重い一言をもらい、日本へと帰国しました。

今までの人生、和太鼓以外の違う世界を見てきたからこそ、その世界一本ではないからこそ、見える世界がある、表現できる世界がある。
そう信じて、プロデビュー以来、我が道を突き進んできました。

だからこそ、知らず知らずの間に、逃げていた世界があるのかもしれない。

俺は、和の世界のことを何も知らないー

山中さんの生きる世界との圧倒的な壁を、目の前に突き付けられました。

ただ、それまでの、本当に知らないことと、知らないことを知っていることとは違う。
これを機に、改めて1つずつ、学んでいくしかない。

2017年。
アゼルバイジャンツアーでの挫折から、一歩ずつ歩みはじめます。

西川浩平先生にご指導をいただき、
岡田寛行さん、‏‎響道宴さん。イベントでご一緒した諸先輩方に相談しながら、アドバイスをいただきながら、一歩ずつ一歩ずつ。

当時はわからなかった、山中さんの言葉。
反芻しながら、少しずつ歩みを進めていきました。

そして2018年。
再び、山中さんとのツアーの機会をいただくこととなりました!
(海外ツアープロデューサーの高久さんにしつこく懇願したんです。高久さん、ありがとうございます。)

「2度と演奏しない」となってもおかしくない中、再びのチャンスをいただけたこと、本当に感謝しかありません。

アゼルバイジャンの時のようには、絶対にしない。

固くリベンジを誓い、ツアーへと挑んだのでありました。

バルト三国ツアーでは、歌舞伎舞踊家の若月仙之助さんもご一緒させていただきました。
これも初めての経験でした。

踊り手さんという主役がいる演目。
音楽として演奏するのではなく、情景を生み出す演奏。
目立たず、踊り手さんをひきたてる演奏。

一度でもお客様の目が自分に向いたら負け。
ただ、目はいかないけれど、音で情景を浮かばせる。音のみで世界観を表現し、劇場を包み込む。
そして、踊り手さんの表現を最大限ひきたてる。

目だってなんぼ?
のような世界で演奏してきた僕にとって、これもはじめての世界です。

まだまだ、知らない世界だらけです。

けっして良い演奏ではなかったかと思いますが、みなさまにアドバイスをいただきながら、ツアーをまわりました。

そして、、、
「風林火山」の演奏。

アゼルバイジャンの時とは、演奏に臨む精神状態、姿勢がまず違います。
この時には、山中さんの生み出す“間”、“世界観”、自分の生み出す“音”や“余韻”を楽しむ余裕がありました。
1年半前。
当時はわからなかった、山中さんのおっしゃっていた言葉の意味が、少しわかった気がしました。

アゼルバイジャンでは僕がぶち壊した曲。
バルト三国ツアーでは、僕が生み出す“間”や“ソロ”に、お褒めの言葉もいただきました。

そしてツアー最終日。
ホテルにて山中さんから、忘れられない言葉をいただきました。

「俺好みの和太鼓奏者になってきた。くらいついてきてくれて、嬉しかった。ありがとう。」

これほどの、誉め言葉はありません。
ええ、その場で号泣しました。

その後、山中さんからいろんなイベントにお声がけいただくようになりました。

昨年末には、山中さん主催の1対1コラボ演奏会にもお声がけいただきました。

大先輩に囲まれながら、身に有り余る光栄です。

そこでいただいた言葉。

「最初はどうなるかと思った。
2年かかったけど、
良いユニットになったと思う。」

一生忘れない、僕にとって、大切な言葉です。

改めて、外の世界に連れ出してくれた高久プロデューサーに、感謝しかありません。
そして、弟子というわけではない僕に、愛ある指導をたくさんしていただきました山中さん。
本当にいつもありがとうございます。

まだまだ未熟な身ですが、僕もいつか歳を重ねたとき、後輩たちに何か残すことができるよう、日々精進していきます。

それでは、今回は、アゼルバイジャン~バルト三国ツアーでの忘れられない出来事を振り返りました。

これからも外の世界でたくさんのことを学び、吸収し、
和太鼓彩の世界に活かしていきたい。

いろんな世界を見て、
“彩の最高に楽しい世界” を創り上げていきたいと思います!

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