和太鼓を選ばなかった理由 by岡本峻一
日時:平成30年10月19日
執筆者:岡本峻一
タイトル:和太鼓を選ばなかった理由
皆さまこんにちは!
和太鼓グループ彩の岡本峻一です。
もっと皆様に和太鼓彩やそのメンバーの事を知っていただきたい、
という趣旨のこのヒストリーページ。
今回は「和太鼓を選ばなかった理由」というテーマで書かせて頂きます。
現在僕は和太鼓グループ彩の「専業組」という立場にあります。
※「専業組」=和太鼓の演奏以外の運営面にも携わり、和太鼓で生計を立てているメンバー
しかし一度僕は人生における決断のタイミングで、この「専業組」を選びませんでした。
今回はなぜそのタイミングで、なぜ選ばなかったのかをお話ししたいのですが、
この記事、とても長く、そして、とても暗い内容になると思います。
それでも書こうと思った理由は、この話をお伝えした上でないと、
「なぜ今和太鼓を選んだのか」という話ができないと考えるからです。
そして、書くからには赤裸々に語らなければ意味がない。
そんな内容になる今回のお話しですが、
もしよろしければ、少し読んでやってください。
ワタクシ、岡本峻一は2016年3月に大学を卒業し、いわゆる「一般企業」に就職しました。
「●●パンダ」のキャラクターや「ほにゃららカードマン」が有名な某IT企業です。
「太鼓で生きるか」
「『普通』の人生を送るのか」
そんな2つの選択肢の中で、その時選んだ道がそれでした。
小学生や中学生の時、僕は「普通に」サラリーマンになって、「普通に」生きていくのだろうと思っていました。
そんな自分が「和太鼓で食べたい」とおぼろげながら思ったのが、高校3年生の時、
大学受験を1年後にひかえ、自分の将来を、きっと初めて、ある程度しっかり想像した時の事でした。
しかし、「そんな道は現実的ではない」とも同時に思い、
普通にサラリーマンになるんだろうと思い、特に深く考えず、大学進学を選びました。
(その環境のなんと恵まれていたことか、、)
次に「太鼓で食べる道」を意識したのが、前回書いた入団を考えた時期、大学3年生の時でした。
徐々に周囲が就活に向けてインターンシップなどを始めた時。
その時、彩に入団を決めたわけです。
そして、いよいよ明確な決断を迫られた大学4年生。
もう、本当に、、、悩みました。
自分は人生を通して、何をやりたいのか。
和太鼓という、自分がやりたいことが明確にあって、
ものすごく幸運なことに、それで食べることを選べる、「彩」という道がある。
、、、でも、それで一生食べていけるのか。
太鼓が好きとはいえ、本当にそれを職にしなければいけないのか。
「普通に」就職して、週末を太鼓に捧げるのじゃダメなのか。
どこか企業に就職して、そこで何か太鼓にかかわる仕事をする道もあるんじゃないか。
そもそも、この悩みは「普通に働く」事からただ逃げたいだけなんじゃないか。
こんな事がえんえんと、自分の中を廻り続けました。
たぶん、人生で一番悩んだ時期だと思います。
そんな答えの出ない悩みの中で、中途半端な気持ちで就職活動を続けたので、
周りがどんどん内定をもらう中、僕はもう面接で落ちる落ちる笑
ストレスがたまると、食べる量増やして発散するタイプなんですが、
(だからこんな成りに、、、笑)
この時はもうヨーグルトくらいしか食べられなかったですね。
どんどんやつれていきました。
そして悩み続けた中、2015年9月末、ついに一社内定を手に入れました。
10月1日の内定式まであと1週間、3日中に最終判断をしてこいとその会社に言われました。
これまでさんざん悩んだつもりだったのですが、
まだ悩めたのか!ってくらいさらに悩みました。
まとまらない思考を紙に殴り書いて、選びたい道は明確なのに、踏ん切りをつけられない自分のふがいなさにイライラして。
そして最終判断日当日、僕は会社のそばの河川敷にいました。
ギリギリまで悩んでいたけれども、結局はその会社に就職することを選んだんです。
大きく2つ、自分がその道を選んだ理由がありました。
・自分が「太鼓で食べたい」以上の目的が分からなかったこと
・母に泣きながら反対されたこと
・自分が「太鼓で食べたい」以上の目的が分からなかったこと
これはもう書いてある通りです。
「太鼓で食べていきたい」ということ以上に「太鼓で何をしたいのか」自分の中で、
自信をもって語れるものがありませんでした。
それはただ漠然と「太鼓がしていたい」だけなのではないか。
それって、本当に太鼓の道に就職してまでやらなければいけないのか。
仕事以外の自分の時間を太鼓に使い続けるのじゃダメなのか。
それに気づいたのが1つ。
そしてもう1つ。
・母に泣きながら反対されたこと
これは、もうやっぱり深く突き刺さりました。
友人の中には「自分の人生なんだから、親の言う事なんて」という人もいましたが。。
僕にはできませんでした。
大学1年生の4月、僕は父を亡くしました。
そこから大学を卒業するまでの4年間、
大学に行かせてくれ、留学もさせてくれ、そして太鼓を彩で叩けたのも、母が一人で支えてくれたおかげでした。
もちろん自分の道は最終的には自分で決めようと思っていました。
しかし、基本的には子供が決めたことは尊重して、サポートしてくれた母。
大きく、僕の決断に反対したことなんて、ありませんでした。
ましてや、泣きながらなんて。
その母が最終的に、
「3年、普通に就職して普通に働いてくれ。
その先は自分で責任を持って決めてくれていいから」と。
母への恩もある中で、その母の言葉を無視することはできませんでした。
話は戻って15年9月末。
「自分の目標の見えなさ」「母への恩」そうした理由で、
半ば無理やり道を決めていました。
そんな状態で迎えた、最終判断日当日、僕は会社のそばの河川敷に居ました。
こちらがその時居た場所の景色です。
このヒストリーページを書く中で一回行ってみようと思い、行ってきたのですが。
そういえばあの日も、この写真のように今にも泣きだしそうな曇り空でした。
この河川敷、ベンチが無いため、写真の手前に映っている石に座っていました。
ここに座っていた時にはすでに自分の覚悟を決めていたのに、
ここでまた、2時間ほど座り込んでいました。
たぶん、、、あの時は何も考えていなかった気がします。
呆然とそこに座っていました。
そして約束の1時間前、
「専業組としてやっていくことはできません。」
葛西さんに電話をし、そのように伝えました。
本当につらかったです。河川敷で一人、号泣していました。
電話が終わった後も、
そのまま河川敷で号泣していたのですが、、
そうしたらなんと、
川の向こうから篠笛の音が聞こえてきたんです。
ヒドイ追い打ち笑
思わず、苦笑いしていました。
そういった葛藤の中で2016年4月1日から社会人になりました。
ただ、それからも和太鼓彩での活動には極力参加しました。
就職を決意した後、初めて葛西さんに会った時にもらった言葉のおかげだったと、
今でも強く思っています。
「今後、岡本が就職した後、絶対に今まで通りの活動ができなくなる。
それでも可能な限り参加するようにしてほしい。
そうしないと、岡本はいつか太鼓を選べなくなるから。」
そういった言葉があったから、
それ以降の活動にも、どんなにきつくてもへばりつくことができました。
(とはいえ、2016年4月2日のライブ「篠笛の宴」は入社式翌日で流石に心配だったのですが、、笑)
そしてへばりついたからこそ、その後太鼓の道を選ぶことができました。
本日のお話しはここまでにさせて頂きたいと思います。
大変長くなってしまいましたね。
3100文字オーバー、、、。
さて、次回は「なぜ和太鼓彩で食べる道を選んだのか」を書きたいと思います。
このような長文に最後までお付き合い頂き、
ありがとうございました。
またお時間があるときにでもぜひ。
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